?このツイートを見てハッとしたんだけど、何を口にだすか、どうやって言葉にするかということはその人の生きてきたものによると思った?。昨日すごく好きなアニメの紹介と中身を延々とツイートしてて、その作品を深く語りあった経験が無いことに気づいた。ちょっと話したとか、一方的に語ったとかはあったけど。
布教とかも考えたことないし

自分の考えのとき「これは言っても仕方ないな」って思ったり人の話を聞いてて「そんな言ってもどうしようもないことをなんでいうんだろう」と思うときがあって、後者の場合はつまらないとかしょうもないなとかその人に対して思ってるんじゃなくて、そういうどうしようもないことが

すごく面白かったり、その人を知るきっかけになったりする。例えば腕怪我しちゃったんだ、とかあの人に恋をしてるとか。そういう言ってもどうしようもない(と私が思ってた)ことを言う/言わないの選択肢はきっと成育過程に持ってきた言葉への信頼感、言葉にすることへの思想によると思う

だからaせ…は自分の気持ちを他者にいうか言わないかということにも深く関わっていると思う。(全部ではないけど)言葉の先には他者がいるし、それが関係になっていく。だからaせ…のあり方というのはきっと性愛だけにとどまらないのだと思う…

あれは驚いたということは、今日肌ツルツルなんだけど触って見て、って言われたとき本当にそんなこと言って何になるんだろう?って思ったけどその周りにいた人が笑ってたりして明るい雰囲気でこういうのがコミュニケーションなんだなあと…

人に悩みを言える人間は甘えてるとか強いとか、色んな意見を聞くけど、それは気持ちを言葉にできるか、意味のあることだと他人に主張できるかということで、強みだと思うし甘えとかではないと思う…言葉にするなんて本当に悩んでない証拠だとか言ってる人もいたけど、単にその人がそうだったんだと思う

言葉に詰まるぎしをみながら
自分の言葉を抑圧してるというのは他者との関係や世界への信頼感、ひいては自分自信をどう思ってるかどう思うべきかわからないということだから、それは抑圧と共存することが最初の一歩だと思うけど、どうか言葉と世界と他者がぎしにとって優しいものであればいいなあと思った。

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